東京の僕より 印度に行った僕へ

今回のインド行きが、はじめて僕の中で確固として決定事項となったのは、3年前に大学の授業で書いたこの作品を書いたときでした。今からすると(というか今でもなんですが)非常に稚拙な作品です。ホント死にたいくらい恥ずかしい。ですが、21だった頃の自分は間違いなく、こんな思いでいたのだと今でもはっきり覚えています。

実現まで実に3年かかってしまいました。 長いですが、どうぞ。


2003年度 2セメスター パーソナルコンピュータと文学 課題作品

「東京の僕より 印度に行った僕へ」

3ABG1125 えなりコスギ



2002、12月、東京
雨が降っている
僕は、インドに行きたいと、強く、強く願った
僕は東京に残った。
僕はインドへ行った。


2004、5月、東京 下北沢 カフェ「ADDICT」

〜笠原孝也 写真展『東京の僕より 印度に行った僕へ』
於カフェ「ADDICT」5/9〜22〜

僕は知り合いの経営するカフェ「ADDICT(アディクト)」で写真と文章の展示を行っている。
展示のタイトルは、
「東京の僕より 印度に行った僕へ」。
インドの風景や人物の写真、インドでの手記やその活字打ちしたものと、東京での風景や人物の写真、東京での手記やその活字打ちしたもの。
それらを対比、対話させたり、あるいは調和させたり、あるいはまったく無関係になるように配置した。店のドアを開けると、イーゼルにメッセージボードが立て掛けてある。

「東京の僕より 印度に行った僕へ。

雨が降っている
僕は、インドに行きたいと、強く、強く願った
僕は東京に残った。
僕はインドへ行った。

僕の足あとはそこにある。
僕の足あとはここにある。」

そこは一風変ったカフェで、一人につき2週間、店の壁面を無償で無名のアーティストに貸し出すというのが、僕より幾分年上で髭面のそのオーナーのアイデアだった。オープン当初からアーティストたちは6ヶ月間自分の順番待ちの状態だった。店に来る客は来るたびに趣向の変る壁面に楽しませられたり癒されたりした。僕もその一人であり、あるイラスト描きの作品が気に入った僕はその店に3日とおかず通いつめて飽きずに眺めていた。しかし、その時までは僕とそのカフェ、そしてそこのオーナーとは大体その程度の関係だった。カフェを始める前からそのオーナーとは知り合いではあったし、1人か2人、画家やイラストレーターを紹介したこともあった。が、まさか僕が自分の作品の持込をするとは思わなかったようで、去年最初に話を持って行った時には意外そうな顔をされてしまった。
「孝也、事故ったんだって?まあ無事で何よりだよ。ん?展示がしたい?お前がかい?なんだい突然?まあ物を見てみない事には・・・え?持って来てる?へー・・・ほーん・・・うん。写真も文章もまあ悪くはないし、まあお前の事は俺、知ってるしな。俺は構わないよ。でもお前、写真なんていつから始めたんだ?それにインドなんていつ行ったんだ?誰と行ったんだ?」
 僕は、一昨年デジカメを買って、それ以降持ち歩いているとか、インドへはついこの間一人で行ったとか、そのうちまた行くかもとか適当な事を言った。
「ふーん、まあ、いいや。じゃあ来年の5月の2週からで話を進めておくよ。それでいいな?」
それでいい、と僕は言って店を出た。それが2003年の12月だった。
確かに僕はインドに行った。
しかし僕はインドに行ったことがない。

僕が展示をするきっかけになったのは、今から1年半前の事だ。

2002年12月16日
今日は土曜の午後、外は雨が降っている。
僕は単位制高校に通う21歳、いわゆるダメ人間だ。18歳で留年、高校を中退し半ば
実家に引きこもるようにしながら散発的にバイトをしたりして生きていた。見かねた両親が見つけてきたのが今の単位制高校だ。
お陰で僕はなんとか高校を卒業するめどが立ち、付属大学に推薦で入る事にまでなった。
僕は、自分が普通の人間にまだ戻れるのだと言う安心感と、こんな風に僕の人生が現実的に決定していく事、つまり僕の学力はその大学位なんだと他人に思われ、不自然な年齢は「あ、こいつ負け組だ」と思わせる、そうやって、まるで僕が失敗作としてどんどん固定されていくような、言いようのない悔しさを同時に味わっていた。
今までは、たとえば初対面の人間や親戚などに対して
「歳は?」「21っす」、「何してんの?」「フリーターっす」、で済んだ。これからは、
「歳は?」「22っす」「何してんの?」「大学生っす」「4年?」「一年っす・・・」「浪人?」
「いや・・・なんとかかんとか」「へえ・・・で、どこの大学?」「あ、あの、○○大っす」「あっ、そう・・・」とやらなければならない。この「なんとかかんとか」をいちいち説明しなければならないわずらわしさと、「あっ、そう・・・」の沈黙に耐えなけていかなければならないうっとおしさ。気が重い。
これから先、一体何回それをしなければならないのかと思うとうんざりする。
 一日中家にいると気が滅入るばかりなので、僕は気分を変えようと、傘を差して家を出た。コーデュラナイロンのコートに財布と携帯、煙草とライターと携帯灰皿を入れて。
何はともあれ下北沢に向かう。徒歩で15分。通り過ぎる住宅街は高級で閑静で、立派なツリーや電飾がきらびやかだ。まるでディズニーランドみたいだと思った。
僕は傘を差すのが下手で、気が付くとコートが濡れている。靴も普通のキャンバス地だから水が染み込み、気持ちが悪い。くさった僕はタバコに火をつけたが、湿っていて不味かった。
 別に何処へと言うあてもなく出たけれど、僕の足は次第に例のカフェへと向かった。
鉄橋の下をくぐる時、数人の同い年ぐらいのグループとすれ違った。歩道にはガードレールがあり、傘を差しているせいもあって、彼らは歩道一杯を塞いで来た。僕は、彼らを植え込みの縁石に上ってやり過しながらそれが僕の知り合いでありませんように、と祈った。幸い、彼らは僕の知る誰でもなかった。
彼らが行ってしまうと僕は歩道に下りた。
鉄橋を通り過ぎるとき、僕は鉄橋の下でも自分が傘を差していたことに気付いた。一瞬傘を閉じかけたが鉄橋はあと一歩で通り過ぎるところだった。別に迷うほどでもない、と思い直した。別にこんな短い鉄橋くらい、傘を差したまま通る人だって普通にいるさ。こんな事に迷う事自体が馬鹿々々しい、と。
僕は、そこで足を止めた。理由は自分でも良くわからない。手が寒かった。足が靴下まで濡れてぐしょぐしょいってちょっと寒すぎて感覚がなかった。息は白く、鼻水が出た。コートは肩がずぶ濡れだった。僕は傘を閉じた。何やってるんだろう、と自分に対して思った。何やってるんだろう。でも、自分の何に対してか判らなかった。
傘を差し続けたことに対して?足を止めた事に対して?ずぶ濡れな自分に対して?同い年のグループにわざわざ道を譲ってやった事に対して?それで知り合いがいませんようになんて卑屈に思った事に対して?そんな自分が高級住宅街を歩いた事に対して?家々を見てディズニーランドみたいだと思った事に対して?それとも僕がこれからの自分の人生について、なんて言って考えたりしている事に対して?それとも親の脛かじってだめな人生送ってる事に対して?
きっと、全部だ、と思った。
「何やってるんだろう」
僕は口に出していってみた。
ホント何やってるんだろう?自分で自分が少しおかしかった。少し笑った。
鉄橋のコンクリに、誰かが書いて、誰かが消した落書きや、千切れた古いポスターやまだ新しいポスターがあった。コンクリの壁の終わりは、線路脇の盛土がそのまま続いていた。冬だというのに雑草が青々と顔を覗かせ、雨水を滴らせていた。僕はそういうのを見て、なぜか思った。
「インドに行きたい。」
そのまま僕の頭上を電車が通った。

そのひらめきが、それ以降、僕の頭を離れなくなった。カフェでコーヒーを頼んでなんとなしに展示された絵を眺めている時も「インドに行ったらどんなだろう」、勘定をして店を出る時もずっと「インドに行けたらなあ。」下北沢の町を歩いている時は「インドに行くには何が必要だろう?」と考えていた。
本多劇場の下にあるヴィレッジヴァンガードでアジア旅行本を立ち読みした。一冊買った。もうひとつ、ポラロイドカメラの玩具で、撮った写真がそのままポストカードになって送れるというものが売っていた。安物だけど、気に入ったのでそれとその予備のフィルムも買った。
下北中を歩いて、いい加減靴の浸水と足の寒さが我慢の限界に来た。僕は入ったばかりのバイト代を全額下ろしてしまうと、靴屋に行った。延々とおなじ曲を繰り返す大きな靴屋で雨にもびくともしなそうなアウトドアのブーツを買った。別の店で靴下も買い、駅前のマックで履き替えると気分が良くなった。「これでインドに行ける。」そう思った。
そう思ったところで、ふと我に返った。どうせ行ける訳がない、と。高校はまだあるし、その次は大学も始まるだろう。現実的に冬か夏の休み中に行くにはまず、両親を説得せねばならない、金もない。度胸もない。見知らぬ国。一人っきりで言葉も通じない。恐い。
しかし、全てをなげうっても、今行きたい。どうしても、今行かなければならない。
今を逃せば一生行けない。行くなら、今しかない。
僕はマックのあまり美味しいとはいえないコーヒーが冷め切ってしまうまでそこにいて悩んでいた。そして結局答えは出なかった。
 
家に戻ると既に母が夕食を取っていた。
「ただいま。」
「おかえり。遅かったわね。」
「うんちょっとね。」
「何してんだか知らないけど、しっかりするのよ。高い学費払って大学行かせるんだから。」
「はい。」
そんな感じで僕も夕食の席に付いた。僕が小言を言われるのはもう毎度の事で、慣れている筈だが、なぜかその日は違った。小言を言う母にいつものように少し苛立ちを感じていながら、同時にそんな母をいとおしく、申し訳なく思ってもいた。まるでもうすぐお別れであるかのように。

その後いつものように風呂に入り、自分の部屋に行った。
一人になると、さっきの思いがまたより一層強くなって来た。
インドに行きたい。インドには行けない。インドに行きたい。インドには行けない。行きたい。行けない。行きたい。行けない。
どのくらいの時間、僕は悩んだのだろう。両親はもうとっくに寝てしまい、家で起きて動いているのは僕一人だった。僕は頭が痛くなるくらい悩んだ。そのうちに、ふっと悩みが頭から消えた。僕は、まあいいや、行かなくても、と思っていた。ふと、僕しか居ない部屋に物音がして、隣を見た。
僕が僕を見ていた。

僕は2つになっていた。
僕は、しばらく、黙っていた。僕は僕にこういった。
「あー、そうかこれなら心置きなくインド行けるなあ。」
「あー、そうかこれなら別にインド行かなくていいや。」
「もう何も言う事無いな。」
「もう何も言う事無いな。」
「行ってらっしゃい位か。」
「行ってきます位か。」
目の前の僕は意を決したようにさっさと荷物をまとめた。父のお古の一眼レフ、下ろしたバイト代の残りとパスポート、Tシャツとパンツと靴下。旅行本と数冊の文庫とマンガ。それらを僕の愛用のバッグにねじ込むと、捨ててもいいような着古したリーバイスと分厚いだけがとりえのスウェットパーカーとジャケットに着換えた。マイルドセブンとライターをポケットに入れ、バッグを担ぐと僕は玄関に下りた。目の前の僕がためらいも無く昨日買ったばかりのブーツを履くのを見て、ちょっと惜しいなと思った。僕は昨日買ったものを僕にあげた。ポラロイドカメラの玩具と予備フィルムだ。「寂しくなったらこれで近況でも送ってくれ。くれぐれも怪我と病気には気を付けろ、なにせ、パスポートを使用して出国する以上、僕は公的には日本にいない事になる。元気でな。」
僕がそういうと
「ありがとう。そうするわ。んじゃ、そっちも元気でな。」
と僕が言った。僕はドアの鍵を外すと、後ろを見ずに出て行った。外の門を開ける音がするまでに少し間があった。多分、僕は煙草に火を点けていたのだろう。
 
一週間と2、3日が過ぎた後、インドに行った僕から手紙が届いた。封筒には数枚の写真と例のポラロイドで撮ったそのポストカードがあった。写真は空港や街の風景で、ポストカードには、半分、ピンぼけの僕の顔が写り、半分はどこかの商店街かなにかの人ごみが写っていた。下の余白には一言「僕へ。すげぇぞ!インドは!」とだけ書いてあった。僕はふと、私書箱を作らないと家族が混乱するな、と思った。
あと、早急にこちらからも写真を送れるものを買わなければならない、と思った。
 
それからというもの、インドと東京で僕の文通が始まった。大体一月に一度、向こうから写真を同封した手紙が届く。最初の1ヶ月位は気の向くままあちこち旅したのだろう。送られてくる写真は風景写真が多かった。だがそう経たないうちに旅費が尽きたようで、今ではニューデリーの日本料理屋で皿洗いかなにかの仕事をしている。写真は職場の人間やガンジスで沐浴する人たち、おそらく毎日見ているであろう夕焼けの写真などになった。
最近になって、どうも一人のインド女性の写真が目に付く。名前はミーナさん、料理屋の店主の娘だと言うが、まあきっと僕は惚れてるんだろう。どこに惹かれたかわかる気がする。写真を見ると、彼女の方も僕に悪い気はしていないようだ。
僕が帰国した時の事が気がかりだったが、当分帰る気配はない。
僕は、僕に送ったポラロイドと同じ物をもう一つ買おうか迷ったが、冷静に将来性のことも考えて結局デジカメを買い、それで撮った大学や友人、バイト先等を写真プリントにして送った。
手紙には、相変らず変り映えのしないこちらの家族の近況や僕自身の大学生活を書いた。 
僕の文通は、一年続こうとしていた。

2003年11月6日 東京 
その日は、朝から雨だった。僕は愛用のスーパーカブに乗り、割と大きな通りを渋谷へと向かっていた。交差点を右に曲がろうと車の間をすり抜けて右折車線に行った。しばらくして右折信号が点き、僕はそのまま進んだ。その時、対抗車線から信号無視の車が来た。「あれ?」と僕は思った。僕が覚えているのは、それまでだ。

気が付くと、僕は病院のベッドにいた。あのあと、僕は車にはねられ救急車で運ばれていたようで、意識がはっきりしてからは両親が来たり検査をしたり大変だった。しかし体の方は奇跡的に殆ど何とも無く、その日に退院した。カブは壊れたが、事故の相手の保険で買いなおしてくれるという。僕の素性が問題になるかと少し心配していたが、それも大丈夫だった。まるで何事も無かったかのように、僕は今までと変らず日常を過ごした。

ただ、その事故の後、インドの僕からの手紙がふっつりと途絶えてしまったのだ。

事故以後、こっちからいくら手紙を送っても僕からの返事は来なかった。時々、あれはみんな事故のショックで見た夢だったんじゃないかと思った。しかし、僕の手には、僕が送ってよこした手紙や写真が確かに残っていた。僕は、1ヶ月と11日の間、6通の手紙を送って、僕からの返事を待ちつづけた。

2003年12月17日 東京
待ちつづける事が日課となりかけたある日、僕の元に、大きな包みが届いた。差出はインドの日本大使館だった。僕はその包みを急いで開けた。中に入っていたのは、僕の持ち物だった。いくつかの見慣れた服やバッグ、少し傷ついたカメラ。
それらは、遺品だった。
同封された手紙を読むと、身元不明の日本人らしい男性が11月6日頃に交通事故で亡くなり、その男性の知人であるというMeena Sampattという女性がその男性の実家の住所がこちらであると言うので、一応遺品を送ったとのことだった。その男性はパスポートは所持していなかった。遺品の中にも無かった。
おそらく僕は、もしもの場合に備えてパスポートを捨て、国籍不明の人間になったのだろう。もとより帰るつもりなど無かったのか、途中で決心したのかはわからないが。
送られてきたものの中には、おそらくミーナさんが書いたと思われる手紙もあったが、ヒンディー語で書かれたその文字を読むには時間が必要だった。
そして、その手紙に括られるようにして、大量の写真と手紙があった。
インドで僕が生前撮った風景写真や、東京から僕が送ったプリント写真や手紙、
孤独を紛らわすために書いたような誰へあてるとも無く書かれた文章、
それらは僕がインドへ旅立ち、東京で見送った次の日から始まっていた。
そしてミーナさんと2人写ったポラロイド、
下の余白には彼女への思いが書き綴ってあった。


僕は、遠くインドの地で、死んだ。
僕は、ここ東京で、今日も無事に生きている。
手は合わせなかった。涙も流さなかった。ただ、写真と手紙を見続けた。



終り